昨日、2016年3月11日 14時46分 平田寺さんにて鎮魂の鐘を撞かせていただき、黙祷。  
昨日は様々な方が様々な形で3.11を思ったのではないでしょうか。

  
けれど今日は? 明日になったら?

  
人は「○○のために」という思考を持ち続けることが難しいと感じます。

自分の生活範囲内の思考にだんだんと切り替わってゆく。

  
その場や事を経験していない場合、当事者にはなり得なくて。

  
そして経験していても、していなくても、みんなそれぞれに様々な想いを日常に抱えていて。

 最近、常々思うことがあります。何事においても、傍観者にはならないということってとても大切だということ。

  
あぁ面倒なんだろうなぁ、巻き込まれたく無いんだろうな、やる前から諦めてるんだなって単純に読み取れてしまう、傍観者という立ち位置。

  
自身を安全な立ち位置に置いてるつもりかもしれないけれど、

責任の意識が無い分、場合によっては加害者よりタチが悪いのです。

  
そして傍観者はこのようにまた傍観されてしまうもの。

  
知ったのに、見たのに、そんな関係性って哀しい。何事においても。

  

傍観者であるということは、賢い選択ではなく、結果、自らの恥につながると私は感じます。

  
時が経つ毎に事の大きさを知る。

自分に出来ることがあるとは、未だに思えない。何が出来るかなんて、未だに分からない。

それでも、傍観者ではいられない。

  
自分に恥ずかしく無い生きかたを。

   
    
    
    
 出来ること、出来ないこと、

やれること、やれないこと。

   
 ジャッジするのではなく、

心を添わせて想いのある選択が出来る人間でありたい。

   
 深い悲しみや、大きな苦しみに向き合った過去がある人には強く揺るがぬ芯があります。

   
    
    

 相手の困難を思い図る豊かな経験や感情。

芯が強くなければ、他人に優しくはなれない。

   
    
 その優しさや慈愛の背景には、

幾多の経験と向き合った様々な過去が。

   
 人生の不条理や暴風や荒波を受けながら、

それでも幸せに生きるということ。

   
   
震災直後から様々な言葉やスローガンがあげられて。

  
その表面だけじゃなくて、根本を。

どんなことでも、小さなことでも、関わってみて知ってみて。

   
    
   
関わって知った上で周りをよく見たら、見えてくることってたくさんあります。

   
 見えれば思考は変わりゆきます。

それは行動へとつながる。

   
1人が出来ることはとても小さい。

けれどその小さいことがつながったら?

  
小さなことを積み重ねるということは、ある側面から見るとなにも変わっていないように一見思えるかもしれない。

  
かかりすぎるほどの時間。

けれど揺るぎなく。

思い合うこと、分かち合うこと、継続してゆくことの大切さ。

  
たとえば、今、この時、目の前にいる人の笑顔を思うこと。

そんな小さな、とても小さなこと。

  
方法、手段は様々でも、

その心はお互いの心を様々に磨き合うのではないでしょうか。